MUKU-DATA  秋山泰宏さんの作品 木曾くらしの工芸館にて

数日前の新聞にクリエイティブリユース(創造的再利用)と題して
アップサイクルやダウンサイクルの記事が目に留まる。
雑多に置かれているとゴミに見えるが、きちんと整理整頓すると
素材として輝き出す。
廃材は欠けていたり半端なものだが、
「むしろ欠けている方が想像力を刺激する。人の想像力と創造力は対で発達すると感じる(大月ヒロ子さん)
今朝の新聞では美術家の冨井大裕さんが連載しているはみ出す作品十選の中でも
制作時に割れた部分をそのまま残した彫刻の話が出ていた。
傷には来歴がある。~略~ 傷は、私たちの身に降りかかった出来事のレコードとして
身体に存在する。
傷は、この作品がこれまでの彫刻が背負ってきた宿命を振り切ったことの証明、
勲章だと思う。
手足のもげた古代の彫刻を、私たちはトルソと呼び、完成した彫刻であるかのように鑑賞している。
この傷は、彫刻が物から出発し、物として自立することを宣言する。
物が物として私たちの前に在る、開かれた態度がこの傷から示される。
開くことは展開することである。


木曾くらしの工芸館で見た秋山さんの欅の机で
インドネシアで古材チークを再利用して作るd-Bodhiと家具メーカーの事を
思い出した。
ボードウッド(古い舟)からアップサイクルされた家具を初めて見た時に
どこか心に刺さるものを感じた。
アイアンと組合せたチーク材廃材で作られたテーブルと椅子2脚は
今でも使っている。(椅子は正直、座り心地は良くないのだが・・
コンセプトと見た感じ、そして一点物は、どこか良い感じがする)

子供の頃、ズボンの膝や服の肘の部分が破れるとアテ布でパッチワークされ
なんだか恥ずかしかった記憶があるが、
その後、大量生産の使い捨て文化を過ぎて今がある。
大切な鞄、大事に履いているジーンズなど良く考えてパッチワークされたものは
される前より素敵なものを目にする事も多い。
もったいないという精神は、もともと人には(日本人?)にはあるのだろう。

この業界に携わっていると古い家の解体現場も頻繁に遭遇する。
欄間、障子、床の間、簀戸、躯体、大きな梁、大黒柱・・・
もったいないなぁ・・ 何とか別な形で活かせないかなぁ・・と思う事しばしば。

材木、建築、これからの事、会社の事・・・
ここ数年、色んな事がごちゃ混ぜになって頭の中で混沌としている。
自身のアップサイクルを兼ねて、何とか次への形にしなくては。。。