MUKU-DATA  バストゥーンウォルナットの割れ

昨日、木が好きで過去に何度か一枚板を買っていただいた事があるお客さんから電話があった。
「じぶんのブログに出てるあの6m x1mの花梨ってまだあるの?」と。。
「あぁ、あれありますけど、割れが酷くて(木表から木裏まで達している部分が多くあった記憶)
多分、無理かと思いますよ」と。。。
これ、普段の受け答えの一般的な返答
結構バキバキの状態だった記憶があるので何か細かくして部材取り用かな?と考えていた花梨。
お客さんいわく
「それが良いんじゃない、割れた部分に埋木してさ、補修して、良いじゃん!」
「割れてりゃ安いだろ?」
「自分もそういうの好きだろ?」
あっ・・そうだった。好きだった。。
(割れてるから安いだろ?は痛いところついてくるなぁ・・)
木の事を良く知っているそのお客さんは、
むしろ割れ、その割れ方を楽しんでいるようにも感じる。
じゃ今度出しておくんで見に来てくださいね、って事で電話を切った。
割れ・・ 木は割れる。
大概どこか割れる。
お昼から木材倉庫で作業をしながら、一人木と向きあう。
どんなにいい杢の木でも、どんなに樹齢がある木でも、
どこかしらに一般的には欠点と言われる、虫穴、割れ、反り、蒸け、ヒビ、・・・などない木は
無い。
その欠点部分を取り除き木取りされ、無欠点材として仕立てあげているだけの話。
毎日材を扱うものとして、なかなか自分の口からいうのは言い訳のように聞こえると嫌なので
普段からあまり積極的には口にはしないが
割れてる材には味がある。
その物に対して割れがキャラとなり全体の景色を作り出しているように見える。
自然に裂けた木、木の繊維に沿って緩くフラフラしながら出来た割れ・・
時には勢い良くパーンと割れた潔さ
自然が作り出す線に勝るものはないのではなかろうか。。。
以前目にした、建築家が作った小上がり框のナラの芯持ち材、
ナラの芯持ちなんて必ず割れるが、静寂な空間に対しての素材の力、
静の中の動、その割れ方が美しかった。
(きっと想定外だったかと思うのだが・・)
昨今流行りの茶碗の金継ぎ
傷の繕いを模様として見立てる感性を持つ日本人の美意識
生木のままで木の器を作り、乾燥過程で反りや割れなど自然に任せ
出来上がったものが完成とする、あるがままの姿の美
どれも何だか日本的な考え方のような気がします。
物を大切にして補修しながら次へ受け継いでいくこと、
何だかとてもいいなぁと感じます。
だからこそ、ものそのものの最初が肝心だなぁ・・と思ったり。。
適材適所、割れない方がいい箇所もあろうかと思う。
でも割れていた方が味わい深くていいなぁ・・って見える箇所もあるかと思う。
割れを活かす。
見せる割れ、
樹齢80年の無傷な材と樹齢200年の欠点材、
自分は後者を選んでいることが多い。
割れを含んでの全体の景色、
ここら辺も木を見立てる際の重要なポイントとなるだろうと思う。
見せる割れ、見れる割れ、・・
あんまり考えると意図的なものが入り込んでしまいそうだから
直感と自然に任せた方が良さそうだ。。。
んなことを考えながら昨日倉庫で作業をしていた。
おかげで昨夜から身体中のあちこちが攣っている。。
先日、佐川美術館の樂吉左エ門館の本を見返していたら、
寄付の立礼机が鉄刀木(とあるがウェンジか?)で板巾の 1/3部分からほぼ
元から末まで割れが走り、蝶チギリか何かで留められている写真が出ていた。
ここは割肌のままだったり、斫った痕だったり、バリ古材など使われているようだが、
建築には素人であろう樂吉左エ門さんの木の使い方の方が
むしろ大胆で面白いなぁと思う。

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